歌手资料
里国隆
英文名:
性别:男
国籍:
出生地:
流派:
生日:
星座:
身高:
体重:
简介:
小档案\n鹿児島県・奄美大島の崎原に生まれる。生後8ヶ月ごろ、民間療法の不注意で失明。樟脳売りの老人と出会い竪琴を習う。初めての家出。\n日本最後のリアル・ブルースマン\n奄美の島唄を唄う大道芸人\nハワイにも行ったという噂もある\n \n竪琴、三味線を掻き鳴らし\nだみ声で唸る\n \n盲目の樟脳売りは僕等の日常にいた\n大事件\n大正8年(1919)\n6月10日\n鹿児島県・奄美大島の崎原に生まれる。生後8ヶ月ごろ、民間療法の不注意で失明。\n昭和6年(1931)\n12歳\n樟脳売りの老人と出会い竪琴を習う。初めての家出。\n昭和11年ごろ(1936)\n17歳\n家出 崎原~古仁屋~加計呂麻~徳之島~沖永良部~与論~沖縄\n昭和14年(1939)\n \n第二次世界大戦はじまる\n昭和15年(1940)\n21歳\n沖縄の東北端、国頭郡安田(あだ)に現れる。\n昭和16年(1941)\n \n太平洋戦争はじまる\n戦時中、奄美に滞在。\n昭和20年(1945)\n \nアメリカ軍の沖縄上陸。戦争終結。奄美はアメリカの統治下におかれる。\n昭和21年(1946)\n26歳\n目の手術をうけ、片目だけはかすかに視力が回復する。\n昭和22年(1947)\n27歳\n再び沖縄へ。\n沖縄、平安座に着く。\n以後昭和38年の12月まで17年間沖縄を放浪。\n金武湾、石川、コザ、普天間、辺野古と放浪。\n昭和26年ごろ(1951)\n31歳\n宜野湾で家をかりていた。\n昭和28年(1953)\n \n奄美の日本復帰。\n昭和33、34年頃(1958,1959)\n38歳\n普天間で暮らす。\n昭和38年(1963)\n43歳\n奄美に帰る。名瀬の公営アパートに住む。\n所帯をもつが、沖縄へ何度も旅に出る。\n沖縄の復帰前\n \n沖縄のコザで照屋林助に声をかけられる。\n照屋の録音「照屋コレクション」\n昭和47年(1972)\n \n沖縄の日本復帰。\n昭和50年(1975)\n56歳\n「照屋コレクション」を聞いた竹中労が訪ねる。\n8月 6日\n「琉球フェスティバル'75夏」のため東京へ。\n8月 9日\n東京杉並のテイチクスタジオでレコード録音。合方は栄タダ。LP「奄美の哭き歌」テイチク\n8月12日\n京都円山音楽堂でライブ。合方は萩原君江。\n8月13日\n新宿コマ劇場でライブ。合方は萩原君江。\n8月14日\n青年会館でスタジオ録音。合方は萩原君江。\n8月15日\n日比谷野外音楽堂でライブ。合方は栄タダ。LP「熱狂の日比谷野音Vol.1戦争の哀れ」CBSソニー\n8月16日\n大阪難波花月劇場でライブ。合方は萩原君江。LP「狂闘乱舞カチャーシー大会」テイチク\n昭和52年(1977)\n57歳\n名瀬で仲宗根幸市に会う。\n3月16日\n原田健一の録音。「語り1」「語り2」*1\n7月31日\n自宅で録音。「雨ぐるみ」合方は中村八重。*1\n昭和52~53年\n \n原田健一の録音。11曲。*2\n昭和53年(1978)\n1月\n58歳\n名瀬市・喫茶店ノアで録音「かんつめ節」「すわゆい節」合方は萩原君江。*1\n \n \nラジオ沖縄の招きで沖縄へ行く。仲宗根幸市同行。\n昭和56年(1981)\n61歳\nラジオ沖縄が「帰ってきた半琴(ハングトゥ)弾きの国隆」を制作。松野均プロデュース。\n昭和57年(1982)\n8月6日\n62歳\n「食料についての歌・豆地獄」*2\n11月18日\n沖縄・那覇市平和通りにて路上録音。録音・宮里千里。10曲。*3\n昭和60年(1985)\n5月19日\n66歳\n尼崎・北大島民謡おさらい会で録音「語り3」*1\n6月22、24日\n沖縄ジャンジャンでライブ。「語り4」「缶詰節」合方は松山美枝子。*1\n6月28日\n永眠。享年66歳。\n
小档案\n鹿児島県・奄美大島の崎原に生まれる。生後8ヶ月ごろ、民間療法の不注意で失明。樟脳売りの老人と出会い竪琴を習う。初めての家出。\n日本最後のリアル・ブルースマン\n奄美の島唄を唄う大道芸人\nハワイにも行ったという噂もある\n \n竪琴、三味線を掻き鳴らし\nだみ声で唸る\n \n盲目の樟脳売りは僕等の日常にいた\n大事件\n大正8年(1919)\n6月10日\n鹿児島県・奄美大島の崎原に生まれる。生後8ヶ月ごろ、民間療法の不注意で失明。\n昭和6年(1931)\n12歳\n樟脳売りの老人と出会い竪琴を習う。初めての家出。\n昭和11年ごろ(1936)\n17歳\n家出 崎原~古仁屋~加計呂麻~徳之島~沖永良部~与論~沖縄\n昭和14年(1939)\n \n第二次世界大戦はじまる\n昭和15年(1940)\n21歳\n沖縄の東北端、国頭郡安田(あだ)に現れる。\n昭和16年(1941)\n \n太平洋戦争はじまる\n戦時中、奄美に滞在。\n昭和20年(1945)\n \nアメリカ軍の沖縄上陸。戦争終結。奄美はアメリカの統治下におかれる。\n昭和21年(1946)\n26歳\n目の手術をうけ、片目だけはかすかに視力が回復する。\n昭和22年(1947)\n27歳\n再び沖縄へ。\n沖縄、平安座に着く。\n以後昭和38年の12月まで17年間沖縄を放浪。\n金武湾、石川、コザ、普天間、辺野古と放浪。\n昭和26年ごろ(1951)\n31歳\n宜野湾で家をかりていた。\n昭和28年(1953)\n \n奄美の日本復帰。\n昭和33、34年頃(1958,1959)\n38歳\n普天間で暮らす。\n昭和38年(1963)\n43歳\n奄美に帰る。名瀬の公営アパートに住む。\n所帯をもつが、沖縄へ何度も旅に出る。\n沖縄の復帰前\n \n沖縄のコザで照屋林助に声をかけられる。\n照屋の録音「照屋コレクション」\n昭和47年(1972)\n \n沖縄の日本復帰。\n昭和50年(1975)\n56歳\n「照屋コレクション」を聞いた竹中労が訪ねる。\n8月 6日\n「琉球フェスティバル'75夏」のため東京へ。\n8月 9日\n東京杉並のテイチクスタジオでレコード録音。合方は栄タダ。LP「奄美の哭き歌」テイチク\n8月12日\n京都円山音楽堂でライブ。合方は萩原君江。\n8月13日\n新宿コマ劇場でライブ。合方は萩原君江。\n8月14日\n青年会館でスタジオ録音。合方は萩原君江。\n8月15日\n日比谷野外音楽堂でライブ。合方は栄タダ。LP「熱狂の日比谷野音Vol.1戦争の哀れ」CBSソニー\n8月16日\n大阪難波花月劇場でライブ。合方は萩原君江。LP「狂闘乱舞カチャーシー大会」テイチク\n昭和52年(1977)\n57歳\n名瀬で仲宗根幸市に会う。\n3月16日\n原田健一の録音。「語り1」「語り2」*1\n7月31日\n自宅で録音。「雨ぐるみ」合方は中村八重。*1\n昭和52~53年\n \n原田健一の録音。11曲。*2\n昭和53年(1978)\n1月\n58歳\n名瀬市・喫茶店ノアで録音「かんつめ節」「すわゆい節」合方は萩原君江。*1\n \n \nラジオ沖縄の招きで沖縄へ行く。仲宗根幸市同行。\n昭和56年(1981)\n61歳\nラジオ沖縄が「帰ってきた半琴(ハングトゥ)弾きの国隆」を制作。松野均プロデュース。\n昭和57年(1982)\n8月6日\n62歳\n「食料についての歌・豆地獄」*2\n11月18日\n沖縄・那覇市平和通りにて路上録音。録音・宮里千里。10曲。*3\n昭和60年(1985)\n5月19日\n66歳\n尼崎・北大島民謡おさらい会で録音「語り3」*1\n6月22、24日\n沖縄ジャンジャンでライブ。「語り4」「缶詰節」合方は松山美枝子。*1\n6月28日\n永眠。享年66歳。\n